「しょうがい」ってなに

教育

おはようございます(*^-^*)

明日から3連休ですね。学校も楽しいけど、休みもやっぱり嬉しいですよね。

さて、今日はタイトルにもあるように、『しょうがい』について学んだことを書いていきたいと思います。

表記について

以前、障害の「害」がかなり問題視された時期がありましたね。今も漢字表記の際は迷うことがありますが、表記についてもそれぞれの立場で様々な考え方があります。「しょうがい」「障害」「障がい」「障碍」みなさんはどの表記をしていますか。違いは何でしょうか。調べてみました。

「障害」という文字は江戸時代末期から使われていたようです。

「障碍」という文字は、もともと仏教語で、「ものごとの発生、持続にあたってさまたげになること」を意味するそうですが、平安時代末期以降「悪魔、怨霊などが邪魔することさわり。障害」という意味で用いられるようになったそうです。

「障碍」は「しょうげ」とも「しょうがい」とも読むことがあり、どちらで読めばいいかわからなくなることから、明治時代以降「しょうげ=障碍」、「しょうがい=障害」と使い分けるようになり、大正時代になると「障害」と書くことが一般的になりました。

https://www.koka.ac.jp/welfare/news/4405/   浜内彩乃准教授

「しょうげ」と「しょうがい」の読み分けのために、大正時代には「害」が一般的に使われるようになったんですね。

「害」は「公害」、「害悪」、「害虫」の「害」であり、当事者の存在を害であるとする社会の価値観を助長しているのではないかとう意見や、「害」には語源的にも人を殺めるという意味があり不適切という意見があり、「障害」と表記することへの批判の声があがりました。

https://www.koka.ac.jp/welfare/news/4405/  浜内彩乃准教授

議論の様子がまとめられた記事がたくさんありました。気になる方は、ご自身で様々な意見を読んでみてくださいね。

「障碍」…(賛成意見)そもそも昔はその漢字だったので、「障碍」にしよう。

     (反対意見)一般的な漢字ではない。表記ではなく、「障害に対する考え方」について議論していこう。

このように「がい」の漢字をどのようにすべきかとう意見が分かれたことから、「障がい」とひらがなで表記をしたらいいのではないかという意見もでてきました。

これについては、採用している会社や自治体も多く、すでにHPやパンフレットで「障がい」と書かれているものも多く見られます。

しかし、ひらがな表記とすることにより、その言葉の持つ意味が失われたり誤解されたりする恐れがある、日本語として不自然といった反対意見もあります。

https://www.koka.ac.jp/welfare/news/4405/   浜内彩乃准教授

結局、議論を行っても決着がつかず、「今後、上記の取組を進めながら意見集約を図っていく過程において、「碍」の字の常用漢字への追加についても十分に検討を進めていく必要がある」ということで、ひとまずこれまで通り「障害」という表記を用いつつも、今後も検討を続けるということになりました。

ですので、法律など、国が定めている正式な文章の中では「障害」という表記が用いられますが、それが絶対に正しいという事ではありません

https://www.koka.ac.jp/welfare/news/4405/    浜内彩乃准教授

はい。結局答えはなく、どう考えるか、というところなんです。引用は、京都光華女子大学のニュース「https://www.koka.ac.jp/andkoka/professor/#welfare-wrapper」からです。そのほかにも、内閣府や文化庁の記事もありました。様々な自治体の考え方や方針についても見つけました。みなさんもぜひご自身で様々な意見に触れてみてください。

表記についてまとめると、法律用語では「障害」、行政用語では「障がい」が今現在は一般的に使われているようです。私は「教師」という立場です。どちらがいいとか、悪いとかそういう議論はしません。しかし、様々な意見があり議論が交わされているという実態は教師として知っておき、子どもたちにも伝えたいと思います。「愛」の反対は「無関心」って言いますよね。議論されているということは、関心をもって「様々な立場の方が心地よく生きていけるため」でもあると考えます。よりよい社会に向けて今も話し合いがなされていること、そして今の子どもたちはどう考えるか。答えはすぐに出ません。何が正解かも人によって様々。解釈も100人いれば100通りですからね。ただ、見つめる方向にはいつもそこに「愛」があってほしいなと思います。

これまでの「障害観」

ここでは「障害」と表記して説明します。世界保健機構(WHO)は、主に医師が診断時などに用いる国際疾病分類(ICD)をほぼ10年ごとに改定しています。今はICD-11ですね。また、これとは別に1980年に国際障害分類(ICIDH)を発表しています。ICIDHでは、障害は以下3つのレベルで説明されてきたようです。

  1. 機能・形態の障害…生物学的レベルの問題
  2. 能力の障害…個人差レベルの問題
  3. 社会的不利…社会的レベルの問題

新たな「障害観」

2001年、WHOはICIDHを改訂し、国際生活機能分類(ICF)を発表。今日ではこのICFの障害の捉え方がグローバル・スタンダードとなっている。特別支援教育士の学習でも何度も目にしたこの図です。

図1 ICFの構成要素間の相互作用図

https://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html   厚生労働省HPより

ICIDHでは、障害のマイナス面で分類されてきましたが、ICFでは「生活機能」というプラス面への視点の転換がなされ、さらに「個人因子(個人の問題)」だけでなく「環境因子」の視点が加わったことが大きな改訂ポイントです。これによって、障害とは活動するうえでの制限(活動の制限)であり、参加するうえでの制約(参加制約)」と考えることができます。

バリアフリーもその一つですよね。階段だけしかなかったら、車椅子で生活している人、骨折などで一時的に車椅子を使用している人、双子や三つ子のベビーカーを使用している人も階段の使用はかなり厳しいのではないでしょうか。(双子ならいけるかって?いやいや、荷物もあって1人ではかなり厳しいですよね・・・💦)つまり「活動不可能」「参加不可能」状態ですよね。道中に「階段」しかなければ、仕事にも買い物にも1人では行けなくなってしまいます。(そんな!!!困っている人を手助けしないような冷たい世の中ではなーい!!!!などの話は一旦横においてくださいね。)ですが、スロープがあったらどうですか?「スロープ設置」という「環境因子」が整っていたら、1人で「活動・参加可能」になりませんか?

つまり、障害とは「ある人の心身機能・身体構造、活動、社会への参加は相互に関係し合っており、それらは《個人因子(一人ひとりの困難レベル)》と《環境因子》の関係において、その人が活動を制限されたり参加の制約をうけること」となるわけです。

障害の重さもその環境によって変化するのです。身近に例えると、眼鏡だってそうですよね。もし、眼鏡がなくて、駅の看板が小さい文字だったら・・・?車の運転できませんよね。活動が制限されるわけです。読書も相当大変ですね。水泳で困ったことありませんか?全然見えない・・・(゚◇゚)ガーンって💦視力が低い人にとって、眼鏡は必要な環境を整える道具ですよね。大きな文字で書かれた看板は、その人にとって必要な「環境因子」となるわけです。iPadなどタブレット学習にすると、文字が大きくなったりします。つまり、弱視の子には「タブレット」も必要な「環境因子」になり、タブレットがあれば、みんなと教室で学習することができるようになるのです。

このように考えていくと、様々な人の困難をまずは知ることが大切でよね。「環境因子」でその困難が改善されるなら、その環境を変えたり、追加したりはできないだろうか。と考える。つまりこれが「個々のニーズに応じた支援」となるわけです。インクルーシブ教育につながるのです。

「障害がある」ことと「障害をもつ」こと

普段、どちらの言葉を使っていますか?これも当事者しかなかなか気づけないことかもしれません。「ある」は事実・存在(英語だとbe)ですよね。ただそこに「ある」という事象です。対して「もつ」とはどうでしょうか?これは主体・行動・動詞(英語だとhave)ですね。

さぁここまではなしてみて、どちらが適切だと考えますか。もし当事者なら、「好きで持ってるわけじゃありません。」と思うかもしれません。主体的に、能動的に「もっている」という表現はもしかしたら、誰かを傷つける言葉になってしまうかもしれません。でも、知らなかったら、つかってしまいますよね。悪気なんて全くなくても。こういうこと、世の中にはたくさんあるんだと思います。学べば学ぶほどそう思います。知らず知らずに口にする言葉、気をつけたいと改めて思いました。

まとめ

特別支援を学ぶにあたって、これはとても大切な考え方だと思います。まだまだ深い話がたくさんありますが、一つだけ確かなことは、一人一人のレベルは違えど、何かしら困難があるということです。身体的に不自由なところがあっても心が健康状態の人もいますよね。見た目はとっても元気なんだけど心におおきな不自由がある人だっています。前者だったら、「何の手助けもなく動けていいな」になるかもしれませんし、後者だったら「自由に動く身体より精神的な自由がほしい。身体的な不自由は目に見えて、助けてもらえていいな」と思う人もいるかもしれません。あくまでも一例ですが。

いろんな立場、いろんな考え、いろんな背景があります。私は教師として、人として、目に見える困難も、そして目に見えない困難も、どちらも「ある」ことを忘れずに、子どもたち、保護者の方々と関わっていきたいと思います😄そして、わすれてはいけないこと!!!それは一番大事なのは、自分自身をまず大切にすることです。疲れたときは「自分自身のために」ゆっくりお茶・コーヒーなど飲んでいたわってあげてください♡それでは笑顔で今日も過ごしましょうね(o^^o)

最後までお読みいただき、ありがとうございました♡  くま

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